宮内庁幹部は「一年で最もお疲れになる1月にとてもお願いできない」と悩んだが、冒頭のひと言で1月訪問が決まった。そこには「いま何としてもフィリピンに行かねば」との陛下の並々ならぬ意志がうかがえた。

 45年2月、「イントラムロス」と呼ばれた旧マニラ市街地では、立てこもった日本軍と砲爆撃を加える米軍との戦闘でサン・アグスティン教会以外ほとんど全ての建物が破壊された。「東洋の真珠」とも呼ばれた美しい街路も焼け野原となった。

 のちに大統領になるエルピディオ・キリノ上院議員は避難準備中に妻アリシアと長女ノルマを日本軍に狙撃された。2歳の三女フェも日本兵に刺殺され、次男アルマンドも別の場所で射殺された。

 大統領就任後、モンテンルパ刑務所に収容された日本人戦犯について日本から助命嘆願が押し寄せ、憎しみか、赦(ゆる)しかの葛藤に苦しむ。任期最後に特赦に踏み切った。日本軍の虐殺や米軍の砲撃などで全土で110万人の犠牲を生みながら、赦しと和解、日本との友好の道を選んだフィリピンを象徴する決断だった。

週刊朝日 2016年2月12日号より抜粋