大坂の陣でも、延俊は徳川方として参加しています。関ケ原も大坂の陣も、ねねの意向が働いたのでしょう。ねねと淀君との間には確執があったようですし、ねねからすれば、兄・家定の系統の豊臣家を守ることができればいい、ということだったのかもしれません。いずれにしても、大坂城は落城し、淀君や秀頼は自害。豊臣家は滅亡したとされています。

 ところが、日出藩主だったわが木下家には、まったくちがうストーリーが代々伝わってきました。捕らえられて斬首されたといわれている秀頼の息子・国松に関するものです。

 国松は真田幸村の嫡男・大助らとともに薩摩の伊集院(現日置市)に逃れた。恐らく、島津家の軍船で落ち延びたのでしょう。その後、薩摩でもかくまいきれなくなったのか、国松は日出藩に来ます。国松は、2代・俊治の弟として延由と改名し、羽柴の姓を与えられ、日出藩3万石のうち5千石を分封され立石藩主になった。これが口伝で伝えられてきたのです。うちの分家ともいえるその家は、明治時代まで続きました。

 わが家の言い伝えは、秀頼に関しては触れていません。ただ、鹿児島市の木下郷と言われていた集落には、こんな話が残っていたそうです。大坂夏の陣が終わると200人以上の集団移住があった。移住してきた人々は、どことなく高貴な人たちで、農業や商売をすることもなく、飲み食いをしても、その代金を払うこともなかった。あとから島津家の者がやって来ては、その分のお代を払っていったことを考えると、移住者たちは秀頼とその家臣たちだったのではないか──。

 現地には、秀頼のものとされる墓もあります。歴史には表があれば裏もある。私は、そう考えています。

(構成 横山 健)

週刊朝日 2016年1月22日号