今までの議論の構造を変えなければなりません。戦後の日本は、米国に従属してきた。ただ、世界中の国で米国に従属していない国はほとんどないのです。そこで対米従属を「ケシカラン」と言っても始まらない。

 問題は、日本の対米従属の仕方です。安全保障政策は、あらゆる可能性を考慮して、最も正しい解を出すのが本来の姿です。それができていない。安保政策をリードする政治家や知識人は、最初から“対米従属ありき”で議論をしている。これは米国への従属ではなく、“隷属”なのです。

 今の日本は、あらゆる階層で知的劣化が進んでいます。それは、知識の量が少ないという意味ではありません。人間として生きるためのモラルが低下している。「自分の知りたくないことは、知らなくていい」という考え方が、今の日本を覆っています。

 安倍晋三首相が、ポツダム宣言について「つまびらかに読んでいない」と発言したことには私も驚きましたが、ポツダム宣言こそが戦後の敗戦処理の原点です。総理大臣がそれを知らない。ここには、「敗戦の否認」の欲求が色濃く出ています。

 哲学者のヘーゲルは、「重要なことは2度経験しないと本当には理解できない」と言いました。不謹慎な言い方かもしれませんが、日本人は、もう一度破滅的な敗北をしないと、気付かないのかもしれません。

 そのなかで、私が希望を感じているのは、沖縄の人たちです。沖縄は、戦後に米軍の軍政下に入り、日本から切り離された。本土で基地が減った分、沖縄には集中した。沖縄は永続敗戦レジームの外部なのです。

 それがいま、翁長雄志知事の誕生で本土に「NO」を言うようになった。永続敗戦のレジームから脱却しようとしている。沖縄に押し付けられてきた重荷を、拒否しはじめたのです。その怒りは、本土の人間が目を背けてきた戦後日本の矛盾に気付かせる力があると、私は感じています。

週刊朝日 2015年6月26日号