いま歯科医療の現場で、歯の健康が全身の健康と関係していることが明らかになりつつある――。なかでも、かむ力の回復は食べることだけでなく、歯を通して脳に刺激が行き、記憶ややる気の回復にもつながるという。

 松野スミさん(仮名・93歳)は4年前の初診当時、認知症が進行し、ぼーっとしてただ座っているだけという状態だった。他院で作った入れ歯が合わず、軟らかいものしか食べられなかったため、大分県佐伯市で開業する河原英雄歯科医師が新しい入れ歯を作り、かむトレーニングをした結果、何でも食べられるようになり、認知症も改善。9カ月後には、息子とともに地元のカラオケ大会に出場した。

 40年前にじん肺(粉塵やアスベストなどを吸い込むと起こる肺の病気)患者に認定された高橋忠さん(仮名・78歳)は、呼吸困難などが悪化し、07年には両肺が重症の気胸になった。気胸は肺に穴が開いて空気が漏れてしまう状態で、半年間入院して治療を受けたものの、退院後は24時間酸素吸入が必要。さらに歯がボロボロでかめないため、体重は38キロまで落ちていた。

「主治医に『食べられないままだともっと痩せちゃうから、すぐに歯医者に行きなさい』と言われてね」

 と高橋さん。河原歯科医師の診察を受けにきたときは、歩くのもやっと。酸素吸入器を手放せないため、10カ月かけて慎重に治療した。

 
 歯の治療が終わり、かめるようになると、妻が栄養のあるものをたくさん食べさせたこともありメキメキと回復。1年6カ月後の定期検診では体重が11キロも増えた。栄養状態を示す総たんぱくやアルブミンの値も基準値に達したという。スタスタと歩いて私たちの前に現れた高橋さんは、

「今は肉がおいしくてね。酸素吸入器なしで階段も上れるし、自分で車を運転してカラオケに行けるようになりました」

 と笑顔で話してくれた。河原歯科医師が「今の元気な姿からはとても想像ができないでしょう」と、初診当時の記録映像を見せてくれたほどだ。高橋さんは誇らしげに歯を見せながらこう言った。

「ほら、きれいでしょ。昔は歯みがきもいい加減だったけど、今は時間をかけてするようになりました。大事な歯だからね」

 なぜ、かめるようになると、からだまで元気になるのだろうか。

「かんでのみ込む『咀嚼(そしゃく)』を含めた、『食べる』という一連の動作は、さまざまな器官を使う高度な作業です。近年、脳にたくさんの刺激を与えることが明らかになってきました」と、河原歯科医師は言う。

週刊朝日  2014年7月11日号より抜粋