心理学者の小倉千加子氏は、マツコ・デラックスの著書から20代を演出しつづける木村拓哉についてこう分析する。

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「木村拓哉は生身の人間がいちばん手を出しちゃいけないところに手を出しているような気がする」

 木村拓哉について書くことはどんなことでも憚られる雰囲気がある中で、こう書いたのはマツコ・デラックスである(『続・世迷いごと』双葉社・2012年)。

 マツコ・デラックスは木村拓哉と高校の同級生。2人は誕生日も1カ月違いで、マツコは41歳、木村は40歳である。マツコは同級生を眺める視線で木村拓哉を見ていることを忘れてはいけない。自分と同じ数だけ齢を重ねていく木村拓哉に対して、「いちばん手を出しちゃいけないところ」は、永遠の若さと永遠のアイドル性の領域だと言えるのである。

 しかし、キムタクにしてみれば、40歳を超したからといっていきなり渋い中年になるわけにはいかない。

 マツコに言わせれば、田村正和は40歳を過ぎてから、今の「演出された田村正和」を形成した。田村正和の時代にはそれが許されていたのである。しかし、木村拓哉の場合、「演出された木村拓哉」を形成したのは20代前半である。

「キムタクって、全然自然体じゃないのに、自然体のフリをしているでしょ。あれこそがまさに、受け取る側のファンタジーを最も崩さないやり方」(『続・世迷いごと』)

 この間もキムタクは料理を食べて「うめ~」と叫んでいた。「おいしいですね」とは言わないのである。いや、言えないのである。

 20代前半にキムタクはいかにも20代前半らしいカッコつけない自然体という「自己演出」をスタートさせた。この演出をキムタク自身が考えたのかどうかは知らない。

 皮肉なことに、20代前半に出演したドラマ「あすなろ白書」(1993年)の取手君の役は「自然体」とは反対の(クールではない)キャラクターだった。取手君の魅力は今も語りつがれるほどであるが、キムタクが21歳という若さの真っ最中であったことの他に、「自己演出」路線から逸脱する消極的で女性的という役柄であったことも大きい。

 キムタクは「SMAP」というアイドル集団の演出によって庶民的な「自己演出」を叩きこまれていて、それを20年間ずっと続けているのかもしれない。キムタクの中には、キムタクではない人格が眠っているのに、そういう人格は「SMAP」のコンサートでは出すことは許されない。

 
 田村正和は80歳になっても40歳でいればよいが、木村拓哉は80歳になっても20代でいなければならない。

「でも、年をとっていることは周りのみんなは気がついているから、違和感もある」

 このことは、ジャニーズ事務所の他のアイドルにも共通することである。どんな役をやっても、いつもジャニーズのアイドルという自己しか出てこない。もともと演劇のレッスンを受けてきたわけでもない。スポーツ選手なら引退して後進を育てるという花道があるがそれもない。ジャニーズ系アイドルは、女性が行く道を辿らされる孤独な男性なのである。

 同級生マツコはキムタクのこれからを心配している。

「永遠の若さと永遠のアイドル性。この呪縛に耐えられるのかしら」
「これ、どう決着をつけるんだろう。1人の人間がこんな呪縛に耐えられて、健やかな『死』を迎えられるのかしら。これからの木村拓哉というのは、ある種、壮大な実験をしているようなものね。人間、ずっと20代でいられるかって実験。それを乗り越えられたら、すごいよ。神よ」(『続・世迷いごと』)

週刊朝日 2013年11月8日号