黒岩さんは、もともと築地に縁があったわけではない。

 大学時代にアルバイトを探していた際に「氷屋」の語感にひかれ、この仕事を始めた。「ショーウインドーに氷を並べてさ、『はい、いらっしゃいませ』なんていうのを想像してね。まさかこんなひどいところだとは思わなかったよ」と言って、黒岩さんは大きな声で笑う。大学卒業後もそのまま、氷販の仕事を続けてきた。

「おいらはね、イヤな奴だからさ、このボックスに座ってさ、みんなが忙しそうに仕事をしている風景をここで眺めているのがさ、好きなんだよ」黒岩さんはそう話すと、また大きな声で笑った。自嘲気味に、冗談を多めに交えながら黒岩さんは話すが、築地の風景を見つめてきた彼のまなざしは、厳しく、鋭く、熱い。頭をそり上げ、薄灰色がかった眼鏡をかけた黒岩さんは、どう表現しようともこわもてだが、極めて穏やかな口調で話しをされる方だ。言葉を慎重に選びながら、ゆっくりと噛み締めるように、自身の思いも語ってくれた。

「築地に観光客がたくさん来るようになってさ。いや、ありがたいんだよ。築地を訪ねてくれる人がたくさんいるのはありがたいんだけど、ここはテーマパークじゃないからさ。俺たちにとっては仕事場だからさ。そこはわかってほしいわけよ」

「売れる魚が変わってきたって話を、ときどき聞くよ。俺はね、魚にも食べることにもそんなに関心がないからね。だけどさ、なんでもあまくて脂があればいいってもんじゃないんじゃない? 消費者の側もさ、メディアもさ、うまい魚を食べ続けたいんだったらさ、食育っていうかさ、魚をもっと知らないといけないんじゃない?」

「ドライアイスありませんか?って聞きに来る観光客の人がいるんだよ。ちょっと考えればわかるじゃない。せっかく新鮮な魚を買ったのに、わざわざ凍らせて帰るのおかしいじゃん」

 そう話しながらも、黒岩さんは観光客を突き放すようなことはしない。私が話を伺っているこの日も、トイレの場所を聞きに来る人や、場内で迷子になった人などが訪ねてくるたびに、黒岩さんはめんどうがらずに、木張りの氷販のステージにかがんで、丁寧に対応していた。

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