木村さんは斗南藩で「史生(しじょう)」(記録係)だった木村重孝(しげたか)の曽孫(ひまご)に当たる。会津藩では会計係を務めていた重孝は70年、妻と4人の子どもたちと一緒に、新潟港から蒸気船「ヤンシー号」に乗ってこの地に来た。

「みんな裸同然でここに来て、どうやって飯を食っていくか大変だったようです」(木村さん)

 下北半島は昔から寒冷の地で、農業の生産性は低い。当時、土地は枯れて米はほとんど取れず、死んだ犬肉の塩煮を食べた人もいた。寒さと栄養不足で、多くの移住者が亡くなった……。

 悲惨な苦痛の歴史を後世に残すべく2005年、木村さんは150万円近くをかけ、自宅2階を改装し私設の「斗南藩資料館」を開設した。館内には、容保直筆の「向陽處(こうようじょ)」の掛け軸や、ヤンシー号の絵、廃藩置県後に斗南藩士が手放した品など貴重な資料が展示されている。館を訪れた人に、斗南藩の歴史を丁寧に説明する木村さんの薩長への遺恨は深い。

「いまNHKでやっている『西郷(せご)どん』ですか? 薩摩が舞台のドラマなんて全然見る気しませんよ」

 この「薩長憎し」の風土を育んだ最たる要因の一つとされてきたのが、戊辰戦争時の「埋葬禁止説」とされる。新政府軍が遺体の埋葬を禁じたため、戊辰戦争で戦死した会津藩士の遺体が半年間、野ざらしにされた、というもの。しかし、この「定説」を覆す新史料が16年12月に見つかっている。詳細をつづった『会津戊辰戦死者埋葬の虚と実』(歴史春秋社)の著者で、新史料を発見した会津若松市史研究会の野口信一副会長(68)は言う。

「地元の反応は『初めて知った』『驚いた』という声が大部分でした。長州とのわだかまりの最大の障壁が取り除かれたのは大きな意義がある、と自負しています」

 新政府軍の汚名をそそぐ「確たる証拠」が残されていたのは、戦死者の埋葬や金銭支払いを記録した「戦死屍取仕末(せんしかばねとりしまつ)金銭入用帳」。地元在住の会津藩士の子孫が1981年、若松城天守閣郷土博物館(会津若松市)に寄贈した史料の一部だ。市の委託を受けた同研究会が、目録の編纂(へんさん)中に発見した。

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